こんにちは。サトウです。
今回は東京 赤羽駅周辺を散歩します。毎月26日だけ会える「あの人」に会いに行きましょう。
動画にまとめたものはこちらからどうぞ。
亀ヶ池弁天
まずは亀ヶ池弁財天に行きます。赤羽駅から徒歩5分ほどです。
大通りから一本入ったところに存在していますが、朱色が映えて目立ちます。
地元住民の方々が弁天講という講を組んで管理されているそうです。
ちなみに「講」というのは、人々がお金を出し合って神社やお寺に参拝する団体、サークルのようなものです。
有名なのは関東に多い「富士講」。江戸時代に富士山信仰が流行ったらしいのですが、全員が行きたいときに参拝できるわけではありません。そこで富士講を結成し、皆でお金を出し合い、代表者に富士山に参拝してきてもらう、ということをしていたそうです。
余談ですが、関東の各地伊勢興富士塚」が残っています。これは富士講を組んだ人たちが近所に富士山に見立てた山を作り(富士山の石や溶岩を使っている塚もあるそうです)、そこを参拝することで富士山に行って参拝したのと同じご利益を得る、というものです。
実際に登れる富士塚もあり、こういった場所巡るのも意外と面白いです。下の写真は北千住近くの千住神社の富士塚です。富士山の神さまとされる木花咲耶比売命(このはなのさくやひめのみこと)を祀っています。
亀ヶ池弁財天は、弁天様を祀っているので、弁天講。
他にも神奈川県伊勢原市の大山(おおやま)に参詣することを目的とした大山講、伊勢神宮を参拝する伊勢講など多様な講が存在します。
また、ここには本物の亀がたくさんいます。
この辺りには昔「稲付城」というお城があったといいます。この池は昔もっと大きな池で、稲付城の天然の要塞の役割を果たしていたそうです。
稲付城があった場所には現在、静勝寺というお寺があります(静勝寺はこのあと訪れます)。ここ亀ヶ池弁天は静勝寺の弁天様を勧請*して祀っています。
*勧請:神仏の御魂を分けてもらって祭ること
お願い事をして、叶ったら絵馬を奉納しに行くのが習慣だそうです。
とても丁寧に管理されているのが伝わってくる場所でした。
静勝寺
次は、先ほど話に出てきた静勝寺(じょうしょうじ)に向かいます。
ここに26日だけ会える人がいらっしゃいます。
その人の名は太田道灌(おおたどうかん)です。静勝寺にある道灌堂というお堂が月命日の26日だけ開き、中の太田道灌像を拝見できます。
静勝寺の門をくぐってまっすぐ歩いた先に道灌堂はあります。
中を覗くと、太田道灌像が鎮座しています。
太田道灌
太田道灌は、室町時代の武将です。
そんなの知ってるよ、という人も多いのかもしれませんが、中学校で歴史の知識が止まっている私は名前を何となく聞いたことがあるかなぁ・・・くらいの人でした。
しかし関東は意識して街を歩いてみると、太田道灌だらけです。首都圏周辺では、街を歩けば太田道灌にあたる、と言っても過言ではないかもしれません。東京に行っても太田道灌、神奈川に行っても太田道灌、千葉に行っても太田道灌、埼玉に行っても太田道灌・・・
例えば東京は江戸城。江戸城の礎を築いたのは太田道灌だったのです(私は江戸城といえば、長いこと徳川家康だと思っていました)。ちなみに太田道灌が江戸城をどこに築くか検討する際、赤羽も候補に入っていたらしいです。
また神奈川県伊勢原市では道灌祭りがありますし、千葉では佐原の大祭で太田道灌の山車が曳き廻され、埼玉は川越城、他にも色々な神社・仏閣を調べれば太田道灌の名前が出てくる出てくる。
気がついていないだけで、私たちは必ずどこかで太田道灌と触れ合っているはずです。
500年も前の人なのに、至るところに名前が残っているということは、それだけ色々なことを成した人ということなのでしょう。戦をすれば30戦負けなし、そして歌の名人であったということで文武両道の模範とされています。各地にお城を築いたり、お寺や神社の創建や支援に携わったりしています。
太田道灌は主君のために猛烈に働きました。そして仕事ができすぎたために最後はその愚かな主君によって殺されてしまうという最後を迎えます。
江戸っ子はこのような判官贔屓の話が大好きだったそうで、『太田道灌飛録』という本が大流行りしたそうです。
また、有名なのは「山吹の里伝説」です。あるとき、太田道灌は鷹狩りに行きました。そこで大雨に降られたため、とある農家で蓑を借りようと訪ねていきました。すると少女が無言で山吹の花を差し出してきたのです。道灌は「わけわからん」と思い、怒って帰ってしまいます。しかし後から家臣にその意味を教えられました。
「七重八重 花は咲けども 山吹の 実のひとつだに なきぞ悲しき」
(山吹はあでやかに咲くのに、実が一つもないように、蓑一つさえないのは悲しいことです)
と後拾遺和歌集の歌になぞらえて「貧しくてお貸しできる蓑もありません」と言いたかったのだと教えられました。
それで自分の無知を恥じた道灌は、それから和歌の勉強に励むようになったそうです。これは作り話だともいわれますが、どちらにせよ道灌が和歌の名人であることには間違いありません。
このような話から、太田道灌は昔から人気があり、戦前には教科書にも掲載され広く人々に知られていたそうです。私は太田道灌のことを知って、街歩きがより楽しくなりました♪
稲付城跡
次は太田道灌が築城したといわれる稲付城跡に行きます。
といっても、稲付城はまさにここ静勝寺があった場所のことです。今はその形跡はほぼありませんが、立派な石碑も建てられています。
ここに向かう途中は坂道がとても多かったです。お城は地形を生かして小高いところに建てられることが多いので、ここもうってつけの場所だったのでしょう。
また先ほど訪れた亀ヶ池弁財天も昔はもっと大きな池で、お城の水堀の役割を果たしていたそうです。
日本にはこのように城址(お城の跡)が各地に存在しています。しかしながら、お城があったと言われなければ素通りしてしまうほど、”お城っぽさ”が残っていないような状態のところがほとんどです。
私自身、以前は地形に興味を持ったこともなく「お城の跡を見て何が楽しいの?」という人だったのですが、『東京城址女子高生』というマンガを読んで意識が変わりました!
お城に詳しい美音ちゃんと、全く興味がないあゆりちゃんが東京のお城の跡を巡って歴史への思いと友情を深めていく(?)というストーリーです。
かつて東京に存在していたお城の痕跡を知ることで、「何もないただの道」と思っていた場所の見る目が変わり、歴史とそのロマンを感じることができるようになってきます。
かつての私のように「お城の跡を見て何が楽しい」と思っている方にこそおすすめのマンガです。
その1巻に、太田道灌の話やここ稲付城の話も登場し、稲付城の遺構だといわれる石も登場します。
この石を見たあゆりちゃんと美音ちゃんの会話。
あゆり「ただの石なのに遺跡だなんて言われると なんだかすごいものに見えるね」
東京城址女子高生 1|山田 果苗
美音「それが彩りだよ あゆりちゃん」
あゆり「これが!? こっ これが・・・これが私の人生をどう彩るんだ・・・」
美音「彩る人生にするんだよ」
あゆり「適当に言ってんな?」
歴史なんて知ってどうするの?と思う現代人は多いのかもしれません。かくいう私ももともと興味がありませんでした。歴史を学ぶのなんて、時間の無駄・・・と思っていました。でもそんな一見”無駄”と思われることが、実は自分の人生を豊かにすることに気がつきました。
戦後生まれの日本人は「自虐史観」で教育されているといわれます。自国に誇りを持てないような歴史を学ぶのです。
私自身もその影響なのは分かりませんが、日本が好きではありませんでした。海外に憧れを抱き、日本をけなして生きていました。外にばかり目を向け、内に目を向けない、そんな生活でした。しかしある時から日本のことをもっと知ろうと思い立ち、色々調べてみると「私はもう十分いい国に生まれているんだな」「日本人として誇りを持って生きよう」と心から思えました。その時に自分の人生がガラッと変わってしまったように思えます。
今まで文句ばかり言って生活してきたのに、満たされているという感覚を覚えました。日本を知るということはそれだけパワフルなことなんだなと気がついたのです。私はこのことに気がつくまでは死んだように生きていたのですが、すごく元気になりました。「日本人として生まれたってどこに生まれたって同じだろう。能力があれば生き残れるし、そうでなければ打ち負かされて死んでいくだけ」なーんて思っていたけれど、自分が日本人であると誇りを持って生きることがこんなにも自分に良い影響を与えるとは思っていませんでした。
日本の歴史を知って日本を好きになることで、死んだようだった自分の人生が、初めて彩られたような気がするのです。そんなことを東京城址女子高生を読んで思いました・・・
三日月坂
静勝寺近くに三日月坂という坂があります。
この辺りに太田道灌ゆかりの稲荷神社がある、ということで探してみたのですが、見当たりませんでした。
そういえば静勝寺の階段の途中に稲荷神社があったのですが、そのことだったのかもしれませんがよくわからず終わりました。ま、こういうのも散歩の醍醐味かもしれません。
和菓子 喜屋
次は甘いものを調達しに、和菓子屋へ。喜屋さんに行きました。
お店にはおいしそうなお餅などがずらり。
あかばねの赤いダイヤ、くるみ餅、虎やきを買いました。
どれもおいしかったです。こういった個人のお店は、本当に餡がおいしい。手作りの愛情を感じます。
赤羽八幡神社
次は赤羽八幡神社に向かいます。ここの神社は小高いところにあるのですが、その下に鉄道が走っています。新幹線の線路も近いです。
鉄道の高架下を抜けると鳥居が見えます。
こちらの神社は、昔太田道灌が支援をしたと言われている神社です。太田道灌は本当に色々な場所で登場します。
ご祭神は三柱。
・品陀和氣命(ほんだわけのみこと)(応神天皇)
・帯中津日子命(たらしなかつひこのみこと)(仲哀天皇)
・息長帯比賣命(おきながたらしひめのみこと)(神功皇后)。
マメ知識:
「八幡神社」という名前の神社に祀られている神さまといえば、まずは「応神天皇」です。第十五代の天皇です。品陀和氣命、誉田別命(ほんだわけのみこと)などと書かれることもあります。
応神天皇の父が「仲哀天皇」、母が「神功皇后」です。
八幡神社によっては、応神天皇だけ祀られていたり、応神天皇と神功皇后が祀られていたり、今回のように親子の三柱で祀られていたりします。
赤羽八幡神社は由緒ある神社で、始まりは平安時代の782~806年頃。坂上田村麻呂がこの辺りに陣を敷いてこの三柱をお祭りしたのだそうです。その後、時を経て太田道灌の父資清が神社に土地を寄付したり、太田道灌が社殿を再建した、といった歴史を持ちます。
勝負事の神として崇敬されているそうです。これから何かに挑む方には良い神社なのではないでしょうか。
赤水門・青水門
次は荒川方面に向かいます。赤水門・青水門という荒川の水の流れを調節する大切な水門があるので、見学してきます。
赤水門に行くには新川岸川を通ります。岩淵橋を通って渡りました。
岩淵橋を渡るとバーベキュー場などがあります。川沿いをランニング、ウォーキングなどしている人たちがたくさんいました。その隣に赤水門、そしてその奥に青水門があります。
赤水門は、昔使用されていた水門(旧岩淵水門)で、現在は水門の上を渡って小島?に渡れるようになっています。釣り人がたくさんいました。
引退した赤水門から、現役の青水門も見ることができます。
大雨などで川の水が増水した際、隅田川へ続く青水門を閉じて荒川に水を流すことで隅田川の氾濫が抑えられる仕組みだそうです。
このように水門などを設けた治水を行うことで、人が住みやすくなり、それまで人が住めなかったところにも人が住めるようになり、荒川・隅田川流域の人口がどんどん増えていきました。
昔の人は機械がありませんから、手作業で掘ったりして何十年もかけて工事をしていました。先人たちの汗水の上に私たちの生活が成り立っているんですね~感謝。
また、赤水門を設計した人は青山士さん。この方は日本人でただ一人、パナマ運河の建設に携わった人だそうです。その経験を見込まれて、赤水門の工事に参加。当時、川底に20メートルの鉄筋コンクリートの枠を12個も埋めて固める方法を採用したそうです。工事の際には、「そこまでやる必要があるのか」と疑問詞もされたそうですが、そのおかげで1923年の関東大震災でもこの水門はびくともしなかったそうです。
あとがき
さて、今回は太田道灌について色々と知ることができました。今後も太田道灌を探して散歩を続けたいと思います。
荒川の治水についても、近くの荒川知水資料館アモアというところで施設の方に色々と説明していただけて、とても勉強になりました。資料館ってみるだけだと飽きてしまうのですが、説明していただくことで自分で説明書きを見るだけではなかなか理解できなかったことがわかるのでおすすめです。
ではまた次回の散歩でお会いしましょう!
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