こんにちは。さんぽ屋のサトウです。
今日は、世田谷を散歩していきます。
三軒茶屋駅からスタートし、”さぎ草伝説”にまつわる駒留八幡神社、吉田松陰が祀られている松陰神社、途中あんこや肉まんでお腹を満たし、豪徳寺などを訪れ、豪徳寺駅でゴールします。
約6kmほどのコースです。
動画
幸福の招き猫電車
三軒茶屋駅から下高井戸駅まで、東急世田谷線が通っているのですが
たまに『幸福の招き猫電車』という猫があしらわれたかわいい電車が通ります。
後ほどご説明しますが、豪徳寺は招き猫が有名なのです。
つり革や床にも招き猫があしらわれているそうですよ。
幸福の招き猫電車の運行は、一時間に1~2本(2024年9月時点)。是非タイミングを合わせて乗車してみてくださいね。
濃ゆ~い商店街
三軒茶屋駅からすぐ近くに、エコー仲見世商店街があります。
この辺りは、通称『三角地帯』と呼ばれています。
昭和の闇市が発祥だそうで、この辺りの三角形の地帯だけ再開発はされずに
昭和の雰囲気が色濃く残っています。
行ってみるとわかりますが、なんともディープな昭和の雰囲気が感じられます。
夜は居酒屋が営業を始め、とても賑わいます。
大山街道があった、三軒茶屋駅
三軒茶屋の地名は、信楽、角屋、田中屋という三軒のお茶屋があったことに由来します。
三軒のうちの一軒は、今も業態を変えて残っています。
それがこちらの写真の「田中屋陶苑」さん。
江戸時代に、大山まで参拝に行く大山詣でが盛んになり、その休憩所としてにぎわった場所が、ここ三軒茶屋なのです。
これまでに何度か、グループでお金を積み立てて富士山に参拝する団体『富士講』の話をしていますが、
その大山バージョン『大山講』が至るところで結成されていたそうです。
江戸から大山街道を歩いてきた人が休憩するスポットとして、この辺りは賑わっていたのですね。
ちなみに、大山とは以前ご紹介した、大山阿夫利神社がある山です。
大山街道とは、赤坂御門からいくつか宿場町を経て大山に至る道です。
(ルートは他にも色々あるそうです)
ここ、三軒茶屋に大山街道があったことの証も残っています。
それがこちらの写真です⇩
旅人たちが道に迷わないよう、このような道標を作りました。
今でも大山街道には道標が残っているところが多いそうですよ。
駒留八幡神社
次は駒留八幡神社に向かいます。
この場所に行くには、「サギソウ伝説」と知っておくとより楽しめます。
ここ世田谷には昔、世田谷城がありました。
その城主である吉良頼康(きらよりやす)は、常盤姫を10人目の側室として迎えます。
頼康は常盤姫を寵愛したため、他の側室から妬まれてしまいます。
そして、側室たちは頼康に嘘を吹き込みます。
「常盤姫は不義を犯している」
最初は信じなかった頼康も、次第に疑心暗鬼に。
そして、ヨリヤスは常盤姫を遠ざけるようになります。
身に覚えのないことを言いふらされた常盤姫はついに、自害することを決意します。
身の潔白を書き記した文を、かわいがっていた白鷺の足にくくりつけて
父母のいる奥沢城へと飛ばしました。
その途中、偶然その白鷺を見かけた頼康は、白鷺を打ち落とします。
そして文を読んだ頼康は愕然とし、急いで城へ戻ります。
しかし、その時にはすでに常盤姫は自害した後だったのです。
その後、白鷺を供養した場所に、白い花が咲きました。
これが「鷺草」だったのです。
というお話です。
駒留八幡神社には、頼康がせめてもの償いにと
常盤姫を弁財天として祀ったといわれる厳島神社があります。
鷺草
鷺草は現在は自生しておらず、九品仏浄真寺の境内にあるさぎ草園、昭和記念公園、もしくはこの後訪れる世田谷八幡宮で見ることができます。
見られるのは、8月頃です。
小さいけれど、本当に白鷺がはばたいているよう。
存在感のある花です。
ちなみに、世田谷のナンバープレートは鷺草があしらわれています。
松陰先生は、年下
次は松陰神社に行きました。
吉田松陰といえば、この歌でしょう。
かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 大和魂
(こうすればこうなる、ということはわかっている。それでもやらずにはいられなかったのだ。それが大和魂というものだよ)
吉田松陰は、当時欧米諸国に日本が滅ぼされてしまうかもしれない、という危機感を持っていました。
そこで、敵と戦うにはまず敵を知らなければならない、とアメリカの船に乗り込んで、アメリカに行こうとしたのです。
吉田松陰と、金子重輔(かねこしげのすけ)の二人でした。
つまりは密航ということですが、密航は当時、死罪にあたりました。
なので、失敗すれば命を失うのです。
でも、日本を守るために決行したのです。
・・・そして、失敗しました。
どうしても船には乗せてもらえなかったのですね。
アメリカ側も、松陰を乗せてアメリカに行けば責任を問われますから。
そして、松陰は自首します。
江戸の牢獄へ送られる際、泉岳寺の前を通った時、
先ほどの、「かくすれば~」の歌を詠んだといわれています。
失敗すれば死罪などということは分かっているけれど、行動せずにはいられなかったのだ、と。
それが日本に生まれたものの持つ『大和魂』なのだと。
あの黒船のペリーは、この吉田松陰と金子重輔の行動に驚き、
また感嘆しています。
この事件は、知識を増すためなら国の厳格な法律を無視することも、死の危険を冒すことも辞さなかった二人の教養ある日本人の激しい知識欲を示すものとして、実に興味深かった。日本人は間違いなく探求心のある国民であり、道徳的、知的能力を広げる機会を歓迎するだろう。あの不運な二人の行動は、同国人の特質であると思うし、国民の激しい好奇心をこれほどよく表しているものはない。その実行がはばまれているのは、きわめて厳重な法律と、法に背かせまいとする絶え間ない監視のせいにすぎない。この日本人の性向を見れば、この興味深い国の前途は何と可能性を秘めていることか、そして付言すれば、なんと有望であることか!
ペリー提督日本遠征記|M・C・ペリー、F・L・ホークス より引用
吉田松陰、金子重輔の行動力は、ペリーや他のアメリカ人に影響を与え
「日本人とは」ということを海外に示したのです。
こういった当時の日本人の勇気ある行動が、日本を滅亡の危機から救ってきたのです。
「日本人なんて、弱そうだし、攻めたら勝てそうだ」
と思われていたら、日本はとっくになくなっていたかも、しれませんよね~
一人の行動が、日本を変えていく。
誰がいなくても、今の日本はなかった。
そうすると、もちろん吉田松陰もなくてはならない人であったし
現代に生きる私たち一人一人も、なくてはならない存在。
一人一人の心からの行動が、この世界に影響を与えているのです。
そんな力を、私たちは皆持っているのだなと、思います。
ちなみに、、、
吉田松陰は29歳で亡くなっています。
私より全然年下でした。
学生の時に教科書で見た吉田松陰は、おじさん?のイメージだったので(すみません)
てっきり40代か、50代くらいと、思っていました。
でも40年、50年、いやそれ以上に匹敵する生き方をした人だったと思います。
こんな歌もご紹介しておきます。
世の人は よしあしごとも いはばいへ 賤が誠は 神ぞ知るらん
(世間の人が何と言おうと、私はどうでもよいのです。神様だけが、国を想う私の真心を理解して下さるでしょう。)
山口県の松陰神社に、いつか行ってみたいものです。
あんことチーズ
次はさんぽ屋にしては珍しく、カフェに立ち寄ります。
City Coffee Setagayaさんです。
お目当ては、「あんチーズホットサンド」。
あんこ好きとしては、どうしても食べてみたい。
このたっぷりのあんことクリームチーズ。
あんバターは割と目にしますが、クリームチーズを合わせちゃうという。
最初に考えた人、誰ですか?
天才。
おいしかったです。ごちそうさまでした~
烏山川緑道
この辺りには、烏山川(からすやまがわ)緑道という、
名前からして明らかに川だった緑道があります。
下の写真のように、「青葉橋」と書かれていることからも
ここには川が流れ、橋が架かっていたことがわかります。
暗渠(あんきょ)発見です。
この緑道は、色々なお花がきれいに咲いていて、歩いていて楽しかったです。
鹿港(ルーガン)
そして本日はもうちょっと寄り道してルーガンに行きました。
ここは人気の肉まん屋さん。いつも並んでます。
肉まんと、黒糖まん頭を買いました。
まん頭とは、肉まんの皮の部分、といったらよいでしょうか。
ほんのり甘く、そのままでも、何か間に挟んでもおいしくいただけます。
ごちそうさまでした。
世田谷城址
次は世田谷城址に行きました。
城址とは、昔お城があった痕跡の残る場所です。
土塁や空堀などが確認できます。
先ほどサギソウ伝説に出てきた吉良頼康のお城です。
世田谷に昔、お城があったなんて、ちょっとびっくりですよね。
サギソウ伝説はあくまで伝説ですが、吉良頼康と常盤姫がこの世田谷城にいたことは確かなようです。
昔だったら、お城の跡を見て何が楽しい?と思ったと思います。
というか、ここがお城だったことすら気がつかなかったかもしれません。
その私を変えたのが、このマンガ。
『東京城址女子高生』
(Amazonに飛びます)
タイトル通り、女子高生が城址を巡るお話です。
この記念すべき第一話で、世田谷城やサギソウ伝説の話が出てきます。
お城に全く興味がなかったあゆりちゃんが、お城に詳しい美音ちゃんにいざなわれ
お城や歴史に興味を持っていくお話が描かれます。
このマンガを読むだけで、かなりお城や歴史に興味を持てると思うので
個人的にはとてもおすすめのマンガです。
豪徳寺参道
さて、次は海外観光客になぜか人気の豪徳寺に行きました。
この辺りも世田谷城が広がり、ここ豪徳寺周辺こそが世田谷城の本丸(メイン)だったと考えられているそうです。
そして、豪徳寺を訪れる際は、是非参道も通ってみてください。
短い参道ではありますが、松並木が心地よいです。
私は松、といえば昭和天皇のこの歌を思い出します。
ふりつもる み雪にたへて いろかへぬ 松ぞおおしき 人もかくあれ
松の木は、冬でも緑を失いません。
そのように、人々にも力強く生き抜いてほしい。
敗戦後に詠まれた祈りの歌です。
大谿山 豪徳寺
大谿山(だいけいざん) 豪徳寺です。
井伊直弼のお墓があることでも有名です。
というのも、ここは井伊直弼の先祖である井伊直孝が鷹狩りの途中、
猫に手招きされたおかげで豪雨を凌ぐことができ、
和尚さんの良い話も聞けたことを非常に感謝したといいます。
それで当時貧しかったこのお寺の支援をするようになり
井伊家の菩提寺になったのです。
そして、白い猫は福を招いた「招福猫児(まねきねこ)」としてお祀りされるようになりました。
だから招き猫だらけなんですね。
ちなみにお寺には本当の猫ちゃんもいて、観光客にも可愛がられていました。
マメ知識:
井伊家といえば、彦根藩。
彦根のキャラクター「ひこにゃん」が猫なのも、この豪徳寺のお話からきています。ひこにゃんの被り物、赤い兜は井伊軍団のシンボルなのです。
この兜のように、武具を朱塗りに統一した戦国時代の部隊を「赤備え」といいます。戦いの際は味方がどこにいるかわかりやすい。一方、敵からも見つかりやすい・・・ということで赤備えが裏目に出ることもあったようです。
ところで・・・
井伊直弼といえば、歴史上の嫌われ者のような気がするのですが
皆さんいかがでしょうか。
私は中学校で習ったとき以来、いい印象はありませんでした。
勝手に条約を結んで、安政の大獄で人を処刑して・・・
身勝手なふるまいをした結果、暗殺されてしまった、と。
でも、最近思うのです。
(これは浅学の私が勝手に思うことですので、話0.05割くらいで読んでいただけたらと思います)
井伊直弼は、自分が嫌われ者の役を一手に引き受けたのではないかと。
だって条約を結んだら、周りから相当に非難されることは、本人だってわかっていたはずです。
暗殺される可能性があることだって、本人もわかっていたでしょう。
頭の良い人ですから。
それでもやると決めたのは、日本の未来を考えていたからではないのでしょうか。
条約を結べば、日本は国際社会の一員として認められることになります。
それはつまり、他国から簡単には侵略されずに済むということです。
そうすることで、日本を守ろうとしていたのではないか?と思うのです。
井伊直弼は国学を学んでいました。
国学を熱心に学ぶ人は、人一倍日本への思いが強いはずです。
天皇を中心とした日本の在り方がいかに大切であるか、わかっていたはずです。
だから、彼なりのやり方で、日本を守ろうとしたのではないか。
そう思っています。
自分が悪者になっていいから、命を懸けて日本を守ろうとしたのではないか。
まぁ、真相はわかりませんが・・・
とにかく当時は日本を守ろうと行動した人たちがたくさんいたんだと思います。
その人たちのおかげで、今があるんですよね😊
世田谷八幡宮
最後は世田谷八幡宮で参拝をしました。
ご祭神は「八幡宮」なので、応神天皇です。
あと、応神天皇の父母である仲哀天皇と神功皇后もお祀りされています。
7月下旬~8月頃になると、さぎ草苑で鷺草が見られます。
あとがき
豪徳寺はなぜ招き猫が有名なのか、
そしてかつては世田谷にお城が存在し、サギソウ伝説が生まれたことなど
ローカルな歴史を知って楽しんでいただけましたら幸いです。
今後も皆様に興味を持っていただける発信をしていきたいと思います。
ご覧いただき、ありがとうございました😊
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