【千葉さんぽ・船橋】意外と歴史ある船橋。徳川家康とも関連が深い!

千葉さんぽ

こんにちは、サトウです。

今回は千葉県船橋市を散歩しました。

意外と(?)歴史のある街で、由緒ある神社徳川家康との関連が見えてきました。

今回も肩の凝らない神社や歴史の話を交えてご紹介したいと思います。

動画

今回の散歩を動画にまとめたものです。


ブログでは、動画に載せきれなかった情報も入れ込みながら紹介していきます。

今回のコース

今回は、船橋駅から津田沼駅まで歩いてみます。

5~6kmのコースです。

3万年の歴史を持つ船橋 ⇨昭和の香り漂う商店街 ⇨あの三峰神社にも参拝できる!?道祖神社 ⇨日本一小さい?!東照宮 ⇨由緒ある神社、船橋大神宮。徳川家との関係も深い! ⇨住宅街に現れる由緒ある神社、茂侶神社 ⇨別荘だった東船橋花輪緑地 ⇨家康が通った!御成街道の痕跡 ⇨伊勢屋さんの謎 ⇨津田沼駅で終了



3万年の歴史を持つ船橋

船橋の歴史

まずは船橋の歴史を簡単にご紹介します。

船橋は縄文時代以前から人が生活していたそうで、3万年前の石器などが出土しています。

すごい歴史ですね。



ちなみに昔は日本の歴史は3000年ほど、と言われていました。

しかし、相沢忠洋ただひろさん(1926~1989)という考古学者が群馬県の岩宿で石器を発見したことで、日本の歴史は3万年前までたどれることになったのです。

ちなみに自然そのままの石を打ち砕くなどしたものを道具(打製石器)として使用していた時代を「旧石器時代」といいます。

その石を磨いたり加工してより使いやすくしたものを磨製石器といい、磨製石器を使用するようになると「新石器時代」になります。

世界的には新石器時代は8,000年前のシュメール文明からが始まったとされています。

しかし先ほどの相沢さんの発見により、

日本では新石器時代が3万年前から始まっていたことがわかったそうなのです。

なんか、桁が違いますよね。

日本、発展しすぎ。笑

ただ、学会ではなぜか相沢さんが発見した磨製石器は打製石器として扱われてしまっているそうです
(もしかすると現在は認識が変わっているのかもしれませんが調べ切れていません)。


とにかく、日本は世界のどこよりも早く文明が発展していたということです。

私たちの遠い遠いご先祖様たち、すごいですね😊



さて、話を船橋に戻しますと、船橋では少なくとも3万年前から人が住んでいたことがわかり

1万年前から2000年くらい前の縄文時代の遺跡も多く見つかっています。



縄文時代は調べているとなかなか面白い時代です。

とにかく、すごく平和な時代だったらしいです。

なぜかというと、人を殺傷するような武器が見つかっていないのです。

争って矢が当たったり、刺されたような跡のある人骨も発見されていないといいます。



縄文時代は1万年以上続いていたとても長い時代です。

その間、争った形跡がないというのが素晴らしいですよね。

人と人がお互いに助け合って暮らしていたのでしょう。



縄文土器も、よく知られているように丁寧な細工が施されています。

これは平和な証です。

争いのある時代であれば、そんな丁寧に細工をしても戦によって壊されてしまうため、装飾をほどこさなくなるのです。



そんな平和な時代が永く続いていたものの、大陸から人がやって来るにつれ、やむを得ず武器を持たなければならない時代になっていったのです。


とにかく、私たちのご先祖様たちは平和で豊かな暮らしを実践していたと言えます。

日本人には、平和をもたらすDNAが備わっているのではないでしょうか。

何だか誇らしいですね😊



さてまた脱線しましたが、さらに時は進み、平安時代。

後ほどご紹介する船橋大神宮の前身ができたのがこの平安時代と言われています。



そしてさらに時を進めて、江戸時代。

この頃は旅籠屋(旅館のこと)の数も多く、宿場町としても発展した賑わいのある町だったようです。

初めて江戸を目指した人が、船橋に来たところで「あれ、もう江戸に着いちゃったよ」と勘違いしたという逸話が残っているそうです。

このエピソードからも繁栄ぶりがうかがえますね。



さらに徳川家康が鷹狩りの途中に立ち寄るなど、船橋は非常に重要な場所でもあったのです。


地名の由来

『船橋』という地名の由来は、川に船を並べて渡ったことにあるそうです。

その川は海老川といい、船橋駅の近くを流れています。

非常にわかりづらい写真ですが、写真中央に海老川が流れているのです

日本武尊が東征の際、小舟を並べて橋を渡したことから「船橋」と名前がついたそうです。

あくまでイメージですが、こんな感じでしょうか⇩

広重『六十余州名所図会 越中 富山船橋』,越平,嘉永6. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1308336

この浮世絵は、富山の風景だそうですが、まさにこちらも「富山船橋」と呼ばれていたそうです。




船橋駅

散歩は船橋駅からスタートしました。

船橋駅は、JR東日本の乗車人員ランキングでなんと19位という人の多さです(2023年度)。

吉祥寺や恵比寿よりも乗車人数が多いんですよね。これは驚きました。




昭和の香り漂う商店街

船橋駅から少し南に行きますと、昭和の香り漂うディープな商店街がありました。

散歩したのは朝一なので、写真ではディープ感は薄れてしまっていますが。

この商店街の始まりは、戦後の闇市だそうです。

現代においても何となく、それっぽい感じが漂っています。


あの三峰神社にも参拝できる!?道祖神社

次は道祖神社さんに行きました。

「道祖神社」という名前の神社は、全国にいくつも存在します。

問題:全国の道祖神社では、共通して同じ神さまがお祀りされているのですが

どの神さまが祀られているでしょうか?



答え:天照大御神(あまてらすおおみかみ)

日本のリーダー的存在の神様ですね。




また、同じ境内に三峰神社さんがあります。

三峰神社といえば、埼玉県秩父市の山の上にある神社です。

近年はパワースポットとしてかなり人気が出ているようです。

私も実際、昨年の秋に訪れたのですが、かなり混雑していました。

山の上で、道も狭くて、訪れるのは結構大変なのですが

それでも大勢の人が参拝に来ていました。

埼玉県秩父市の三峯神社。有名な三ツ鳥居。



しかし、そんな大変な思いをしなくとも

こちらの三峯神社さんでお参りすれば

同じご利益が得られるはずです。


ちなみに、猫で手水ができる神社さんでした笑



さて、次は日本一小さい東照宮に向かいましょう!

日本一小さい?!東照宮

しばらく住宅街の中を歩くと、こんな看板が見えてきます。

『日本一ちいさい船橋東照宮』

この道を進んでいくと、鳥居が見えてきました。

ここは昔、徳川家康が千葉県の東金とうがねという場所まで鷹狩りをしに行く途中に

宿泊・休憩をした御殿がありました。

元和元年(1615年)11月に、徳川家康がここで宿泊した記録が残っているそうです!

二代の秀忠、三代の家光も宿泊をしています。

ちなみに先ほどの、『日本一ちいさい船橋東照宮』という看板のあった道には

『御殿通り』と名前がついています。



その後、時代が下るにつれ、鷹狩りも行われなくなり、御殿は廃止となりました。

今はこの住宅街の一角にこうして東照宮が残るのみですが

御殿はもっと広い敷地だったそうです。

土手も築かれて、さすが防御機能はぬかりなくしていたようですね。

東照宮と、稲荷神社が併設されている

あ、ちなみに東照宮、といえば徳川家康公をお祀りしている神社のことです。



調べていましたら、埼玉県鴻巣こうのす市にも日本一小さい東照宮があるそうです。

いつか訪れてみたいです。



源頼朝が関係?!海老川の由来

船橋大神宮へ向かう道の途中に、冒頭で出てきた海老川を通ります。


由緒ある神社、船橋大神宮。徳川家との関係も深い!

船橋は何といっても船橋大神宮があるのがいいですね。

宮本台地の端に位置する神社です。

船橋駅方面から歩いてくると、裏手側の鳥居が見えてくる。階段があり、小高くなっているのがわかる(宮本台地)
こちらが正面。鳥居をくぐってまっすぐの場所に拝殿がある。



一の鳥居をくぐると『延喜式内えんぎしきない 意富比神社』と

書かれた石碑を発見しました。

あ、船橋大神宮の正式名称は『意富比(おおひ)神社』だそうです。



そして、この『延喜式内』とは何でしょうか?

平安時代に、法律などをまとめた「延喜式」という法典があります。

その延喜式の中に「神名帳(じんみょうちょう)」という

全国の神社リストのようなものがあります。



「延喜式内」とは、延喜式神名帳に記載がある神社ですよ、ということです。

つまり、平安時代にはすでにこの神社が存在していたことがわかります。



神社に行って「延喜式内」という表記を見かけたら

平安時代には存在した古い由緒ある神社なんだな~とロマンに浸っていただけたらと思います。



ですが船橋大神宮は平安時代どころか、1900年の歴史があると言われています。



下の写真が拝殿です。

船橋神宮には、どんな神さまがお祀りされているでしょうか。

実は神社名から明らかなのですが、わかりますでしょうか?

船橋大神宮 拝殿


答え:天照大御神

船橋大神宮、東京の東京大神宮、芝大神宮、小石川大神宮、神奈川の伊勢山皇大神宮いせやまこうたいじんぐうなど

『大神宮』という名前の神社は色々ありますが、

共通して天照大御神がお祀りされています。



天照大御神は、先ほども書きましたが日本のリーダー的存在の神さまです。

ちなみに、歴代の天皇陛下は天照大御神の子孫と言われています。

そのお血筋を2,000年以上もの間受け継いでいるのですから、すごいとしか言いようがないですね。

他の国には決して真似できない、並大抵ではない伝統です。



天皇陛下は、私たち国民を宝(大御宝おおみたから、という)として大切に思ってくださっている存在です。

国が平和であるように、国民が幸せであるようにと祈り、

祭祀を行ってくださっています。




現代人においては、「祈ったからって何なの?」と思うかもしれません。

天皇に祈られたところで、別に何も変わらないでしょ。と。



でも、私たちも日頃お祈りしますよね。

特定の宗教に属してなくても

特にピンチの時には「神さま助けて」って。笑



あとは、誰かを思って祈る。

お子さんが受験生のお母さんが、お子さんに内緒で神社に行って

合格祈願をしてきた、というような話を聞くことがあります。



その祈りは、無駄なのでしょうか?



人が祈りを捧げているとき、遠く離れていても

その想いは届いているのだと聞いたことがあります。



本で読んだのですが、祈られた人の脳波(?)か何かを調べると

反応するんだそうです。
(うろ覚えなので、ちょっと違うかもしれませんが、そういった実験がされているそうです)



科学的に調べても、何らかの影響があるのですね。




良い思いは、相手にも良い影響を与える。

悪い思いは、、、きっと悪い影響を与えてしまうのでしょう。汗


だから、天皇陛下が祈ってくださることにも

きっと意味があるのだと思います。



ちなみに、日本は天皇陛下がいるからこそ、日本として存在しています。



他の国では権力者がトップに君臨しています。

日本では、権力者がトップにいないんです。

権力を持たず、しかし権威を持つ天皇陛下がトップにいらっしゃって、

国民を宝と思って大切にしてくださる。

国民は、権力者に支配されることがなく

天皇とは信頼関係ができる。

そのシステムがうまく機能して、今日まで日本が続いてきたのです。



皇室がなくなってしまったら、日本は日本ではなくなってしまうんですね。



私たちって日本の歴史を学ぶとき、普通に「大化の改新は645年で~」とか習いますよね。

当たり前のように日本がその時からあって、

現代でも当たり前のように存在していて

これからも日本は当たり前のように続いていくと思いがちです。



でも考えてみると、今でも日本があるというのはもはや奇跡です。



他の国を見たら、数十年で滅びてしまう国すらあります。

だいたいもっても数百年。

それでも十分長いように感じますが、日本は桁が違う。



その間、天皇陛下や、たくさんの先人たちが必死に守ってきた国なんですよね。



だから、日本があるのは当たり前ではないということを

ちょっと頭の片隅に置いておきたいですよね。

現在は皇族の方の数が減っており、

今後も皇室が存続できるのか、危うい状態です。

繰り返しですが、皇室が無くなってしまったら

日本は日本ではなくなります。



でも、私たちは普段皇室の未来を考えることって、

ないですよね。



そのため

日本は今、存続の危機だと

私は思っています。



私たち一人一人がもっと日本に興味を持って、

日本の未来を想うようになれば・・・



ひとりひとりが皇室の未来についても考えるようになり

議論も進んでいくのではないかと思います!



と、いつものことですが、つい余談が多くなりました😅



さて・・・

伊勢の神宮には、内宮と外宮がありますよね。

内宮には天照大御神、外宮には豊受大御神とようけのおおみかみがお祀りされています。



船橋大神宮は、伊勢の神宮から分祀(神さまの御魂を分けてもらうこと)していますので

もちろん本殿には天照大御神がお祀りされているのですが

豊受大御神がお祀りされている外宮もちゃんとあるんですよね~

船橋大神宮の外宮。朝が早すぎて開いていませんでした。豊受大御神がお祀りされています。



外宮のお隣には八雲神社があります。

八雲神社といえば、須佐之男命がお祀りされています。

天照大御神の弟神です。

八雲神社。朝が早すぎてまだ開いていませんでした。



さらにさらに、日本武尊がお祀りされている大鳥神社もあります。



そして極めつけは、常磐ときわ神社。

東照宮様(徳川家康公)のみならず、日本武尊・徳川秀忠公、

そして徳川四天王(酒井忠次さかいただつぐ本多忠勝ほんだただかつ榊原康政さかきばらやすまさ井伊直政)いいなおまさ

もお祀りされているとのことです。

盛りだくさんです!




船橋大神宮は、先ほど述べたように伊勢の神宮から分祀しており

さらに徳川家康公もお祀りされているということで、

社伝にはこのように記載されているそうです。

(中略)船橋太神宮は関東一の宮殊更伊勢太神宮との勅号も有之。東照宮様も御鎮座あらせられ候へば、伊勢日光へ参宮相成りがたき者は船橋へ参宮いたし候へば、伊勢日光参拝いたし候も同じ

ええとつまり・・・

船橋大神宮を参拝すれば、伊勢神宮と日光東照宮に参拝したのと同じこと!

なんだそうです。

これはすごいです。

皆さん、船橋大神宮に行きましょう。



住宅街に現れる由緒ある神社、茂呂神社

次は、船橋大神宮から徒歩10分ちょっと歩きまして

茂侶(茂呂)神社に行きました。

意識していないと見落としそうな場所にあります。

住宅街を歩いていると、カイヅカイブキという木なのでしょうか?

台風で下から煽られたような木と、階段が見えてきます。

そこが茂侶神社の参道になります。

写真左手から参道が始まる
参道正面。子どもたちが探検に行きたくなるような雰囲気

怒ってます?と尋ねたくなるような力強い樹が出迎えてくれました。



少し進むと「延喜式内」茂呂神社と書かれた石碑が。

創建は不明らしいのですが

延喜式内なので少なくとも平安時代にはすでに存在した

由緒ある神社です。

ご祭神は、木花之開耶姫命(このはなのさくやひめのみこと)。

名前から何となく想像がつくかもしれませんが

桜が満開で見とれてしまうように、美しい神さまだそうです。



木花之開耶姫命、といえば富士山の神さまとしてご存じの方もいらっしゃるかもしれません。

富士山麓の「富士山本宮ふじさんほんぐう 浅間せんげん大社」にお祀りされています。



この茂呂神社は、江戸時代「茂侶浅間神社」といわれていたそうです。

それを聞くと、木花之開耶姫命がお祀りされているのも納得です。



裏手の摂社には、木花之開耶姫命の姉の石長比売命がお祀りされているそうです。

石長比売命は、鞍馬さんぽでもご紹介しました。

見た目が美しい木花之開耶姫命に対し、姉の石長比売命は醜かったそうです。

姉妹同時に同じ神さまに嫁いだものの、石長比売命だけ帰されてしまったのです。

そんな辛い出来事があっても、「人々に良縁を授けよう」といって鞍馬に御鎮座されたといわれています。

心が美しいですね。

石長比売命がひっそりとお祀りされている



別荘だった東船橋花輪緑地

次は茂呂神社から徒歩5分ほど歩き、東船橋花輪緑地に行きました。

かつてここは海を臨むことができる景勝地だったそうです。

ちょっと今では想像がつかないですが。

昔、凌雲荘りょううんそうという和洋折衷の建物があったそうです。

迎賓館であり、お金持ちを呼び寄せようとしていたとか?

緑地を取り囲むように石垣が張り巡らされています。



建物はすでに無くなっていますが、門が残っているようですね。



門をくぐると、緑一杯の自然が広がっています。



家康が通った!御成街道の痕跡

次は船橋駅から津田沼駅方面へ向かって歩きます。

その際、『御成街道』という道を通ってみました。


船橋から東金とうがねという地方まで約40km、ほぼ直線につくられた街道です。

直線的につくられた街道は珍しいそうです。



さらに現代でも当時の街道の道筋が残っています

これもまた珍しいことだそうで

古道ファンを魅了している(?)のです。


さて、この街道、何のためにつくられたのでしょう?

『御成』という名前からして偉い人が通っていそうですが・・・





タイトルにもうすでに書いているように

徳川家康が鷹狩りのために整備させた街道です。


朝からラーメンを求める人々

御成街道まで行く途中、ラーメン屋に人だかりを発見。

ちなみに、これは朝8時過ぎの様子です。

朝ラーする人々

こちらの「ラーメンかいざん本店」さんは、朝8時から営業しているそうです。

なんでも、開店前から人が並び始めるのだとか。



朝からラーメンを食べる人ってこんなにいるんですね!



これからラーメン屋を開業する方は

朝ラー営業をしたらいいんじゃないかと思いました。

かなり需要がありそうですよ。



成田山道標

津田沼駅方面へ歩いていますと、途中で296号線と分岐します。

この交差点は「成田街道入口」。

ここを左折し296号線に行くと、成田街道。

そのまままっすぐ行くと、御成街道です。

そしてこの交差点に「成田山道」と書かれた石碑があります。

どうやら明治時代のもののようです

こういうものを残していただいて、感謝です。





さらに御成街道を歩いていますと下の写真のように

途中で車が坂を下る道が出現します。

おそらくここが台地のキワで、坂を下る道路の下が低地になっているのでしょう(多分)。

低地の左右に台地が広がり、その台地が歩道になっていると思うのですが(たぶん)

途中で歩道が低地におろされるところがありました。

道路の上に総武線が通っているのですが、

鉄道を通すため、ここだけ歩道を低地に移動させたのだと思います(たぶん)。

御成街道途中で、急に低地への階段が通される



伊勢屋さんの謎

津田沼駅でゴールする前に、

和菓子でエネルギーを補給したいと思いました。

そこで朝7時からやっている「伊勢屋」という

和菓子屋さんに立ち寄りました。

しかし、朝早かったからか、和菓子はまだ並んでいませんでした・・・

その代わり、おにぎりを3つも買ってしまいました。

どれもおいしそうで・・・

左から天むす、たらこ、いなりずし

人のつくったおにぎりを久々に食べましたが

おいし~😋塩加減バッチリ😋

和菓子は買えませんでしたが、よい収穫でした。



ちなみに、この『伊勢屋』さんで疑問があります。

『伊勢屋』という和菓子屋さん、関東に点在しているんですよね。

これら『伊勢屋』さんは、お団子などの他に

おにぎりなどのご飯ものが一緒に売られているのが定番のようです。



しかし、チェーン店的に展開しているのか、あくまで個人のお店なのか

調べてみても未だにわからず謎なのです。

おいしいのでどちらでも良いんですが、

どなたか伊勢屋さんの謎についてご存じの方がいらっしゃいましたら

コメントいただけると嬉しいです。


津田沼駅で終了。あとがき。

津田沼駅まで歩いて、今回の散歩は終了です。

津田沼にはもともとパルコがあったらしいのですが2023年に閉店したそうです。

跡地には何かができるのでしょうか。

パルコ跡地。ちょっと寂しい雰囲気が読み取れた
津田沼駅前



さて、船橋は意外と徳川家康との関係が深かったですね。

鷹狩りってそんなん面白いのか?なんでそんなことするんだろう?

と思っていたのですが、あれは実は鷹狩りという名のフィールドワークだそうですね。

ただただ遊んでいるわけではなく

土地の地形を観察する意味合いがあったのでしょう(たぶん)。



ちなみに鷹狩りでサムライたちが土地を荒らして、現地の人は大迷惑・・・

という話をよく聞きますが、

どうなんでしょう?


これは私の勝手な考えですが

昔の日本人って、日本のことすごくよく考えて生きていたと思うんですよね。

日本を良くしよう!と思って行動した人が大勢いたはずです。

それは時の権力者も同様で、例えば

織田信長は残虐だとか

豊臣秀吉の朝鮮出兵は侵略のためだったとか

やたら悪く教えられたりしますが・・・

「本当にそうなのかな?」と思うんですよね。



時の権力者が行うことには、深~い理由があったりするもので・・

それを知らずに出来事だけを追っていたならば

表面的には残酷だったり、無謀な行動に見えてしまいます。



でも、すべては日本を良くするために、日本を守るために

行動していたのだと見方を変えてみると

まったく違った日本史が見えてきます。



例えば、織田信長だったら

比叡山焼き討ち、とか習いますよね。

この事実だけ見たら「なんて残酷なことをするんだ」

「信長はひどいやつだ」

と思ってしまいます。

しかし、”なぜ”それを行ったのか。

それが見えてくると、

「なるほどね。やらなければいけない理由があったんだね」

と納得できるし、日本を良くするための行動だったとわかってきます。



日本人って、日本を良くしようと全力で生き抜いてきた人たちの集まりだと思うんですよね。

そうでなかったら、2,000年以上も続かないですよね。

だから私たちは、そんな自分たちのご先祖様たちを大いに誇りに思って

自分たちの元気につなげていったらいいと思うんです。



そして、私たち自身も、ご先祖様たちにパワーをもらって

より良い日本をつくっていったらいい。

そんな風に思います。



だいぶ話が拡散しましたが、船橋さんぽを楽しんでいただけたら幸いです。

ではまた次のさんぽでお会いしましょう。



ご覧いただき、ありがとうございました!

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